(寺下凜)外国語研修活動報告から転載
デュッセルドルフと日本
【Immermanstraße】イマーマン通り
デュッセルドルフにある日本人通りのようなもの。通りには日本食店や日本風雑貨屋が立ち並び、日本語が非常に多く見られる。ドイツ人向けの日本料理店、また日本人が多くいるこの街だからこそ日本人向けの日本食品スーパーも存在した。
この場所がなぜこのように発展したのかというと、戦後日本経済が発展し始め、日本企業が海外のどこに拠点を置くか決める際に当時戦争の被害が少なく、すでに三越が籍をおいておりビジネスのしやすい環境であったドイツ、デュッセルドルフが選ばれたからである。またデュッセルドルフ側もそれを好機と受け取り、街としても日本人が住みやすい街づくりに力を入れた。ピークは1960-70年代であり、現在は日本人人口が一万人ほどである。デュッセルドルフには日本人学校もあり、こちらにいる日本人が帰国してもすぐに日本の義務教育に戻れるような教育施設・体系が発展している。先述したように日本の食材なども豊富に取り扱われているため、様々な層の日本人に適した生活を送ることができるようになっていると言えるだろう。恵光寺という浄土真宗の仏教寺院も建っており、本格的な日本庭園も見ることができる。日本人だけではなく地元住民や海外からの観光客からも人気の場所である。ここでは七五三も行えるという。
【Schloss Benrath】ベンラート城
ドイツ、デュッセルドルフにある18世紀に建てられた後期バロック様式が用いられた城。ドイツには城を意味する言葉が二つある。それが【Burg】と【Schloss】である。この二つの城を分けるのは要塞機能の有無である。このベンラート城はSchlossであり、要塞機能はなく己の権力を示すための権力の証として機能している。見た目や内装も非常に絢爛豪華でありベルサイユ宮殿を見本として建造されたバロック様式であり、城自体が左右均等なだけでなく、広大な庭や像の配置などどれをとってもシンメトリーを忠実に守っていることが分かる。完璧に整備された庭からは自然を人間の力で支配することができるという意味もある。また貴族同士のパーティーにも使われていたため、この広大な庭は人目を避け交友を深めるための場所としても機能した。
【Zons】ツォンス
現在にいたるまでドイツ中世都市の建築物を街全体として残す古都市である。街には大きな風車があり、小麦を作ることが盛んであった。街に風車、すなわち小麦を作ることができる施設があったため自給することが可能であった。ここはケルンの大教区であったため、ケルン大聖堂のために関税を徴収していた。ライン川沿いという位置にあることから川の通行者を監視するための小さな監視塔が建っており関税を払わない者には攻撃することも許されていた。
当時街と認められるには教会の承認が必要であり、ツォンスも教会から認められたことで街になった。街というものなるのはデュッセルドルフ村より早かった。街の長にはケルン大聖堂の司教が派遣され就いており、1803年ほどまで教会の代表者が街の王のような位置付けであった。彼らは村に街の権利を与えることができ、そうすることで自治体が生まれ自らによって運営することができた。その例としてマイスター制度などがあげられる。現在、この街並みを残し保護するため住民は建物自体の造りを変えることを許されていない。建物の本質を変えてはいけないため、断熱材などへの改修ができないことが例としてあげられる。軽いリノベーションであっても容易にはできない。
街一帯をすべて、昔から今にかけて大切に残してあるということに非常に感銘を受けた。この街はまるで時間が切り離されているかのように当時の様子を鮮明に私たちへと伝えてくれた。
【Köln Dorm】ケルン大聖堂
ケルン大聖堂は完成に1000年もの時間をかけ、完成したとしたら世界が終わると言われるほど途方のない話であった。材質には砂っぽい石が使われているため非常に壊れやすく、常に修復作業が行われている。建築様式としてはゴシック式が用いられている。ゴシック式には、「神様により近づく」という目的があったため、建物を高く造ることで天国へと近づくように建築物が建てられていた。よってケルン大聖堂も非常に大きく高い造りになっている。ドイツで最初の世界遺産であるのはもちろんのこと、世界遺産ができた最初の年に選ばれたという大変重要な建築物である。ドイツの建築物の中でも最も観光客が多いのもここケルン大聖堂である。造りは精緻を極め、聖堂の内も外も技術の粋を込められていることが感ぜられ見るものを圧倒する。また中のステンドグラスや教壇、座席の配置も日の入り方とともに計算されていることが想像できた。
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