(ヤンボール,アダム)
ドイツ語を勉強する理由
私のクラスでは、毎年さまざまな理由でドイツ語を勉強し始める学生がいます。「なんとなく」、「ドイツに行きたいんだけ」という学生が多いですが、以前には「好きな哲学者の著作をドイツ語で読みたい」という学生もいました。皆さんはどうでしょうか?「なんとなく」よりも、難しい哲学書をドイツ語で読みたいという学生のほうが「ドイツ語をマスターしそう」、「意識が高い」、「しっかりしている」ということになるのでしょうか。
「語学が得意な生徒」と日本語
私はドイツ語のネイティヴなので、みなさんがドイツ語について、どのように思っているのか、正直よくわかりません。しかし、どんな外国語を勉強するさいにも、共通する点もあるのではないでしょうか。私自身は中学校から高校まで英語、フランス語、スペイン語を勉強していました。いわゆる「語学が得意な学生」でした。大学に入ってからは、ずっと憧れていた日本語の勉強を始めました。そのときは、英語やフランス語やスペイン語のように、ちょっと勉強すればペラペラになって、好きな日本のポップ・ミュージックの歌詞も全部理解できるだろうと思っていました。大学の日本学科の同級生の多くも「日本に住みたい」、「好きなアニメを字幕なしで見たい」、「サムライの歴史を研究したい」など、大きな夢を持って、日本語を学び始めました。ところが、同級生の3割は、最初の一か月で習うひらがな・カタカナに挫折して、日本学科をやめていきました。当時の私と言えば、「ぼちぼち勉強」すれば、同級生たちとは違って、自分は余裕で日本語をマスターできるだろうと思っていました。
しかし、大きな夢を抱いて、「ぼちぼち勉強」をして1年後に受けた日本語の試験は不合格でした。そのおかげで、私は大学の日本語講師の「退学・転学相談」を受ける羽目になってしまいました。先生に「どうしたの?君らしくないね。がっかりしたよ」と言われて、私の夢は崩れかかってしまいました。
夢を持つことと、目の前にあることに取り組むこと
夢を持つこと、勉強する立派な動機を持つことがダメというわけではありません。しかし場合によっては、私のように夢に「夢中」になりすぎて、目の前にあるものが見えなくなってしまうこともあります。目の前にあったもの。それは教科書や単語帳でした。日本語講師の先生の期待を裏切りたくないという思いが強くなって、私は目の前にあった教科書を勉強しなおし、通学時間に単語の勉強するようになりました。
「ぼちぼち」つまり、中途半端に勉強した期間を取り戻すかのように、私は目の前にある課題(単語や文法)に集中することにしました。そして大きな「夢」は、ひとまず脇に置いておきました。当時の私にとって、「夢」はただのLuftschloss(※)だったのです。それから私はともかく目の前にあるものに集中することにしました。私はかれこれ8年ほど、ドイツから遠く離れた日本で暮らし、大学で働いていますが、それも、最初から長期的な展望のもとに計画したことではありませんでした。ただ目の前にあることを一つ一つこなしていくなかで、日本に行く機会がおとずれたのでした。
※Luftschloss(ルフト・シュロッス)・・・直訳すれば「天空の城」のこと。届かない夢という意味。
アダム・ヤンボール(中央大学特任助教)
※記事の写真はイメージです。
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